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藤原 章生

アフリカはどんなところかと聞かれて、貧しく、医療も不足し、暴行などの犯罪が日常茶飯事というのは簡単。
著者は、「絵はがきになった少年」の話を例に、アフリカで起こったことがアフリカ外で話題になり、それをアフリカでは知らず、何かが還元されることもないという。珍しがられ同情されども、手を差し伸べられることはないということなのだろうか。一方的に搾取される構造とも言えるのかもしれない。
一方で、著者は次のようにも言う。

やっかいなのは、はっきりと言い切れないことに、意味づけを求める人が結構いることだ。自分で納得できないことは胸の奥につかえる。なら、いっそのこと「これはこういう意味だ」と勝手な解釈を加えて、つかえたものを流してしまう。そのほうが楽だ。
だが、私はわからないことは胸につかえたままでいいではないか、と、思う方だ。現実を現実として放っておく方だ。答えなどないにしても、いずれは、それに一歩近づくときが来る、と思うからだ。


アフリカの現実はそういうものなのだろう。だから、今は、わかったことにしてしまわない姿勢が大切なのかもしれない。本の内容がちょっと散漫に感じるのは、カラードと呼ばれるあらゆる混血と肌の色、国ごとの現実や文化をわかったような気になることを戒められているのかもしれない。それほど無意識に北側の基準を南に当てはめようとしているのだろう。
著者がJ.M.クッツェーの「恥辱」の内容をたびたび引き合いに出す。あの本は以前小説として読んだけど、あの物語がそのまま現在のヨハネスブルクの実情そのものだったと知ると問題の大きさをあらためて感じる。クッツェーも相当の思いを込めて書いたのだろう。主人公に重ねてオランダ人の恥辱を吐露したということか。アフリカーナと呼ばれ、欧米の白人ではなくアフリカ人と位置づけられる白人の思いはいかなるものか。

[本▼▼▼▽▽汁だく]
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2005.12.13 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












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