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四方田犬彦

料理や食についてのエッセイとして『芸術新潮』に掲載されたものだそうです。
16世紀のフランスで『ガルガンチュア』と『パンタグリュエル』という奇怪な物語を書いたラブレーという文学者は食べ物を物語に登場させるのを好んだのだとか。その登場人物たちはいずれ劣らぬ大食漢。本書のタイトルはここからとられ、文学周辺の料理を中心に食についてあらゆる論考がなされています。ただ、学術的に考えるという趣向ではなく、実際に同じものをつくって食べてしまいます。ここが、四方田氏自身をラブレーのこどもたちと一体化させ代弁しているようでとてもおもしろい。ときおりはさまれる料理の写真も、雄弁に読者に語りかけてくる。これも本書の魅力を高めていると思います。
ロラン・バルトの天ぷら、ラフカディオ・ハーンのクレオール料理、アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ、ギュンター・グラスの鰻料理、谷崎潤一郎の柿の葉鮨、魔女のスープなどなど筆者の舌の赴くままに餐宴が繰り広げられていきます。それぞれに、異なったアプローチがなされていて読むものを飽きさせません。
私自身は、料理は五感を総動員してつくる創造芸術だと思っています。食すほうにも同様の感性を求められてもいいわけで、そこに料理の奥深さがあるのではないでしょうか。こういう本を読むと、飽食や健康志向のせいか、食に対する感性が非常に貧弱になっているような気がしてなりません。ジャンクフードも食文化といえなくもないけど、残念ながらそこにはかつてのような豊潤な世界を感じることはないですね。
旨い不味いや満腹空腹の問題ではなく、料理やそれを食する行為自体にこそ人間の本性ともいえるグロテスクでエロティックな魅力があるのではないでしょうか。
本文中で紹介されているデュラスの言葉に「食欲だけが、死ぬまで人間に残るものなのである」という言葉が妙に妙にしっくりきました。
この本を読んだ後は、待ち行く人たちが食べるために生きているものように見えて愛らしく感じるから不思議です。文学としてもとても魅力的な一冊でした。

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19世紀の小説家たちは、実にこまごまと食事場面を描いていたものだと関心する。フロベールも、バルザックも、それにいささか臓物の臭いが漂っているがゾラにしても、登場人物の誰もがしこたま食べて、大勢で長々と会話を続けるという光景を好んで描いていたように思われる。今回とりあげるディケンズも例外ではない。『ピクウィック・クラブ』でも、『オリヴァー・トウィスト』でも、人々は実によく食べる。これが20世紀に入ると、ごく一部の作家を除いて、とたんに食事の描写が減ってしまい、かわりに性描写に比重が移ってしまう。フォークナーでも、ガルシア=マルケスでも、中上健次でも、延々とご馳走の描写が続くということはなかったと記憶している。世を上げての大衆グルメ社会で、ミハイル・バフチンの餐宴理論が世界中の文学教師たちの間で流行だというのに、食事の精密な描写が若い世代の間から消え去ろうとしている現状を、誰か説明してもらえないだろうか。

[本▼▼▼▼▽汁だく]

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2005.11.26 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












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