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宮内 勝典

9.11のあと信ずるべきものがなくなってしまったという虚無間にとらわれた著者。
そのとき、唯一頭に浮かんだのが非暴力により独立を勝ち取ったガンジーだったという。
言われてみれば、わかるような気もする。
多くの権力者は戦いや紛争に走り、知識人が追認し国民が従うという構造が蔓延している。
そんなとき、1963年にベトナムで焼身自殺を遂げた僧侶クアン・ドゥック師の記憶が著者によみがえった。
何をして自らを焼き尽くすという手段を選ばせたのか。
そのあとを追うように続く僧侶の焼身にはどんな思いが込められているのか。
著者は、そこには何かしら”信ずるにたるもの”があると感じた。
そして、居ても立ってもいられなくなり、奥さんと二人でベトナムに飛ぶことに。
何の手がかりもないまま、僧侶の生きた軌跡ををたどることになる。
世界を驚かせた焼身に関わる書籍がほとんど残らないベトナムに疑念を抱きながらの旅が始まる。
読み進んでいくと、若かりしころアメリカに長期滞在したことや、交通事故で全身に焼けどを負った体験などが、著者を突き動かしているようにも感じる。
”信ずるに足るもの”を焼身供養の僧に求めた気持ちを、第三者として推し量ることはむずかしい。
”信ずるにたるもの”を見つけたいと思う気持ちが、現代の人々のどこかで渇望されているということを言うにとどまっているのかもしれない。
ドラマチックに感じるほどの焼身の真意は、旅の終わりを迎え収斂したのか、それとも霧散してしまったのか。

この本を読んでいるあいだ不思議な静けさに包まれました。
それが何かは結局よくわかりません。
今でも公安警察が自由な言論を抑圧する社会主義国のベトナムを感じながら、一方で仏教が持つ悟りのようなものがそれを感じさせるのか。
それとも、60年当時国のキリスト教化を進めていたゴ・ディン・ジエム大統領の仏教弾圧に対し貫かれた非暴力の姿勢に心打たれるせいなのか。
いずれにしても、絶対解のない中での真理を求めていく著者の姿勢が読者の虚無感に迫ってくるものであることは間違いありません。
ノンフィクションとフィクションの両面の楽しみを持ちながら、インナートリップのような感覚を味わえる独特の読後感を感じる小説でした。

[本▼▼▼▽▽特盛]
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2005.09.20 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












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