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吉武 輝子

この前に読んだ本『僕の見た大日本帝国』で一番印象に残ったのが、サハリン(樺太)の話しでした。
それは、中国や韓国、東南アジアと異なり、サハリンにも残留孤児や朝鮮人の人たちがいたんだという新鮮な驚きがあったからです。
考えてみれば一時期日本領だったわけで、残留民がいても何も不思議ではないのですが、入植者が土地を収奪しない開拓民であったことや単独移民であったこと、さらには数の塊が小さかったために、最近まで日本政府も残留孤児はいないと公言していたという状況にあったようです。
ロシアの諜報を恐れ日本人であることを隠さざるをえなかったことも誤認の遠因にはなっているのかもしれません。

もともと満州やサハリンへの移民は、昭和2年からの10年間の毎年15%にも及んだ国内の人口増と世界恐慌の煽りを受けた生活苦から、農家の次男などが夢を新天地に求めたことに起因しています。
政治政情の悪化から南米からは締め出され、行く先を中国大陸や樺太に求めざるをえなかったということです。
残念ながら、当時の日本には爆発的な人口増を養う力はなかったのですね。
南米への移民が閉ざされたときに、単なる地政学的な問題だけにとどまらず、朝鮮や中国、ロシア方面に身勝手な領土拡大をもくろんだことは否めないようです。
そして、そのつけを払ったのが移民者の女性だったということです。

終戦を迎えたときに、サハリンには40万人弱の日本人民間人と2万人の日本軍人が居住し、その中には4万人の朝鮮人も含まれていたそうです。
戦後、樺太では朝鮮人と日本人の地位が逆転し、ロシアにスパイとして通報されないがために朝鮮人と結婚させられたようなケースも多く見られたそうです。
強制的な結婚の問題よりも、子供を持つことにより母親だけの日本への帰国を断念せざるを得なかったという状況だったようです。
親子関係だけではなく、国籍を超えた兄弟親戚関係や養子縁組などの問題なども帰国の道を閉ざしていったとのことです。
厳しい現実は常に弱者のところに押し付けられるということを強く感じます。
著者は、中国残留孤児のときには、あまりの事実の重みに耐えかねて、聞き書きしたことをまとめることなく途中で放棄してしまったと言っています。
その苦い経験も踏まえて、今回は途中であきらめることなく出版に至ったようです。
70歳を超える高齢でこのような記録を残されたことに敬意を表したいと思います。
決して派手な内容ではなく、歴史の流れと事実を淡々と聞き書きしたものですが、だからこそ事実の重みを感じさせられます。
女性である著者が女性の戦史を書き残しておこうとうする思いに心打たれる1冊でした。

それにしても、スターリン政権下のソ連の姿勢には、どうにも納得がいかないことが多いですね。
三国干渉や戦後の進軍、ソ連の干渉をとどめる策としての原爆の投下をはじめとして、終戦直前からの米露の対立に日本が翻弄されたことは否めないような気がしてなりません。
サハリンを知れば知るほど、ロシアの存在が気になってきました。
アメリカの占領下になったことが、日本にとって唯一の救いだったのでしょうか。
ただ、その代償としての禍根を残す沖縄問題など考えると考えることも多いのですが。

日本サハリン同胞交流協会

[本▼▼▼▽▽]
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2005.08.17 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












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