上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |

amazonへ

アントニオ タブッキ

シャヴィエル・ジャナタ・ピントという友人を探す主人公のルゥ(ナイチンゲール)。
夢と現実が交錯し、妄想と現実の境目が入れ替わる。友人を探すのが本人なのか友人が本人なのか、創造された作品を見ているのか、作品の中のできごとなのか。すべての境目が曖昧に溶け合っていく。自分は誰で何をしている人なのかさえわからない。なぜ友人をさがさなければならないのか。
「これは、不眠の本であるだけでなく、旅の本である。不眠はこの本を書いた人間に属し、旅行は旅をした人間に属している」
読み終わるとこのことばが、この小説のコンセプトそのものを言い表していたことに気づく。それは一人の男の二つの意識の物語。

『不眠症』という映画を思い出しました。あちらはミステリーで、こちらは文学作品という違いこそあれ、不眠の扱い方がよく似ています。不眠というのは眠れないということではなく、半覚醒の状態。レム睡眠の現実寄り状態とでもいえばいいのでしょうか。大きく言えば小説も半覚醒の産物とも言えるのかもしれないですね。インド旅行を描く大半のページもインドの不可思議な世界感にあふれるわけですが、西欧のキリスト世界の価値観との絶望的なほどの不一致が半覚醒の気分を高めてくれます。
最終章の女性と旅の目的を話しているあたりで、語り部が入れ替わっていくような仕掛けがされていますが、ここのつくりがとにかく白眉。旅の部分が真実なのか、作品を語る部分が真実なのかわからなくなり、いっきに混沌とした意識世界に突き放たれていくようなおもしろさです。多くを占めるインドで出合う人たちの描写はすべてそれを支えるための下地だったことがわかるのですが、そのうまさには舌を巻きます。
先日映画を見たときには、映像のうまさばかりに気をとられていましたが、小説で書かれている物語世界と現実世界は入れ替わっていくところはみごととしかいいようのないものでした。まさに中途半端な覚醒と言える不眠の意識世界を彷徨っている状態。これは小説でないと楽しめないところですね。

[本▼▼▼▼▼]
スポンサーサイト

2007.05.19 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://slowfish.blog9.fc2.com/tb.php/1443-8806d02e

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。