上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |

amazonへ

池田 晶子


先日腎臓癌で亡くなった池田晶子さんへの追悼の気持ちを込めて読んだ。
読みはじめてすぐに気がつくのが、死に関連する話の多いこと。これらが書かれたのは平成17年から18年あたりのようですが、そのころには本人にもなんらかの自覚があったのでしょうか。それとも、自己の存在を考えるには死を対極に置くことが肝要ということか。
それは別としても、ご自身が話している内容と自分自身の生き様にギャップがあるような印象をそこかしこで受けます。自分ではそう思いたいのだけど、どうしてもそれが自分自身のものとしてひとつにならないことに苛立ちを感じられているような。本人の素の生き方というよりも頭で理屈を考え体現しようと努力しているというか、学んで会得しようという意識が強く、世俗から抜け出せないで葛藤の最中にあったのではとも感じます。そこが、多くの人に共感を持たれたのかな。
46歳ですから、人生を達観するにはさすがに早すぎたということかもしれませんね。

48
死なないことには、生きられない、自分なんてものが「ある」と思っているから、人はいつまでもそんなものを探すことになる。本当には生きられないのである。しかし、そんなものは「ない」、死んで「ない」と思うなら、探し回る道理もなくなる。いまここに居ることが全てなのだと知るはずだ。いつまでも生きていると思っているから、いつまでも迷うことになるのだ。生きることは死ぬことだとわかるなら、できることしかしなくなる。選択の余地はない。当たり前ではなかろうか。
しかし戦後の教育は、やはりここでも逆を行った。「個性の尊重」に加え「生命の尊重」、生きることがそれだけで素晴らしいと教え、生きることは死ぬことがあるから素晴らしいとは教えなかった。人間は死ぬものだという事実すら隠蔽した。よって子供たちは、自分というものは、何となくいつまでも生きているものだと思っている。自分らしく、自分の好きなことだけをして、いつまでも生きているようなのが人生なのだと。かくて、彼らは、したくない仕事なんか、するはずがなくなる。


[本▼▼▼▽▽大盛]
スポンサーサイト

2007.04.16 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://slowfish.blog9.fc2.com/tb.php/1400-ac05640e

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。