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岡田 温司

神がキリストの姿をもって地上に生まれた「受肉」という発想。これが偶像崇拝を認めるもとになったのだそうです。この「受肉」という考え方が、処女でありながらキリストを身籠もるマリアという存在を必要としたというわけです。もっともマタイやルカにとっては処女性よりも予言の成就が重要だったとか。
そういう意味では家父長制社会にあってマリアは行きがかり上で大役を負わされてしまったというのがわかりやすいかもしれません。神が人の姿を借りて出現するという発想が、摩訶不思議な理屈を生み出してしまったというわけです。元来、キリストは人だったものを強引に神格化したところで話をややこしくしてしまったのでしょうね。大乗仏教のようにみんな成仏するというイメージ世界とは異なるのが興味深いところです。
キリストを生んだマリアは「無原罪」かという壁にぶつかり、そこからさらに夫のヨセフの養父話にまで話は及びます。そこまでかと思いきやマリアの両親のアンナとヨアキムまでが性交渉なくマリアを生んだという果てしない話。それらについて厳粛な議論のもとにつじつまを合わされているところもすごいですね。神がまったくの創造物で止められていればこんな面倒なことにならなかったのでしょうが、キリスト教にとって「受肉」と「偶像化」が重要だったのだろうと勝手に解釈しました。
マリアの「無原罪」を時代変化とともにどう描いていったかというあたりや、ヨセフの父祖アブラハムとの父系つながり、神に寝取られたかのような道化の立場、封建時代の復権などもおもしろく読めました。マリアの母の数度の再婚から見た処女性の問題あたりはマグダラのマリアのような役割と見れば興味深いところです。これを想像力の豊かさというのかどうかわかりませんが、キリスト教の厳然たる構築美のようなものは感じました。一人の神しかいないとするキリスト教は原罪により構成された世界感を持つわけですが、そこまで神を絶対化していくところまではなかなか理解しがたいところです。    BOOK44
一方、偶像をもって信仰を深めたキリスト教ならではの美術史はかななか興味深いものでした。絵のひとつひとつにここまで理屈があったとは思いませんでした。いずれもが福音書や外伝をもとに可視化しようしているわけですが、これがなかなかの苦労。「受肉」という考えさえなければこんな苦労もなかったでしょう。ここまでくると正しいとか間違っているとかの問題じゃないですね。
キリストを福音書をもとに絵画という形で具現化することの歴史を見ていくうちに、唯一の神のもとで贖罪を願うという信仰の形というのは一体何だろうということに興味が向かいました。禅などは森羅万象に対する自分のあり方を問い詰めるものなので、外因と内因の考え方の違いに大いに刺激を受けました。読書前に想像していた期待をいい意味ではずされた本でした。
あとがきに、「家族」を他者否定のために使うか、すべてを取り込み許容と見るか、そのいずれかで聖家族を見るかでキリスト教の役割がまったく違ったものになるという指摘がされている。キリストの家族を考える上での重要な視点かもしれない。

<覚え>

聖家族
聖三位一体
無原罪の御宿り

[本▼▼▼▼▽汁だく]
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2007.04.15 | 本  | トラックバック(0) | コメント(1) |

まおさま
いつもご覧いただきありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いします。

2007.04.16 12:51 URL | uota #ogz9v/Dw [ 編集 ]












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