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三田 誠広

この小説は空海が讃岐に生を受け、真魚(まお)と名づけられてから遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられるまでの経緯を伝記風にまとめたもの。あらためて歴史に名を残す思想家の生き様を物語りにして読ませることのむずかしさを感じる。武将治世ならまだしも、悟りの境地を知らぬものがその人となりを書くなどということは土台無理な話だろう。それを承知でチャレンジした著者の意欲に賛辞を送りたい。人間性の足りない空海やあえて選んだという空海の”おれ”表現などには眼をつぶることにしよう。
空海にまつわる逸話は多い。学び修める人でなく自らが考え創造する人であったからだろう。もちろん並々ならぬ好奇心と英知があったことは言うを待たない。空海の天才ぶりを見ると、比叡山を興した最澄は秀才にしか見えてこないほどだ。
空海その人を知るにはさすがにもの足りなさが残るけど、日本古来の宗教の萌芽期に眼を向けるいい機会になった。これを手がかりにもっと深く知りたいと思う。真言密教の聖地とされる金剛峰寺(佐保、母礼とであった丹生(にう)の里)、平安京の東寺、善通寺などもいずれ訪れてみたい。

四国の大龍岳にあった丹生(にう)の里で出会った光明と阿琵居士(あびこじ)。彼らとの出会いが終生において空海の道を照らしたようにも思える。宇宙にも通ずる自然界に住まう八百万の神々との出会いがあったのかもしれない。
生まれ持った知性は、当時もてはやされていた治世の手段としての普及する儒学が教える親と子、君子と臣下の仁義と恩義にあきたらず、世界を俯瞰し一体化する仏教経典に興味を向けさせたのだろう。
当時東大寺で尊ばれていた華厳経の大日経への思いは、久米寺の東塔で大日経を読む機会となって実現する。東大寺が聖典とする華厳教に登場する釈迦(びしゃるなにょらい)さえも包み込む大日如来(まかびるしゃなにょらい)を曼陀羅(宇宙)の中心におくゆが密教を知るところとなる。
しかし、未知のものに対する知識欲はますます強くなり、それをさらに深めた金剛頂経を追うことに。善無畏と金剛智という天竺からの渡来僧により唐に伝えられた、法華経より深く華厳宗より広い教えといわれたゆが密教。姿さえもたない大日如来、経典で語られず、論書でとかれない、ことばにならない深い教えへの関心は限りなく広がるところとなった。
唐に渡り図版や法具、それらをもちいた儀式すべてを知りたいと願っていたところ、運良く最澄と同時期に出た遣唐船に乗る機会を得る。
密教の究極の教えのひとつ金剛頂経は単一の経典ではなく、無限の宇宙を果てしなく説きつづけるものだった。唐の予定外の地に流された空海は、善無畏が大日経を訳語したといわれる大福先寺に立ち寄る機会を得ながら唐の都長安を目指す。書にすぐれ梵語、唐の言葉に長けた空海は多くの人々に知られるところとなり、金剛智の弟子で密教のすべてを知る不空から教えを引き継いだ青龍寺の恵果から密教のすべてを伝授される幸運に恵まれる。念願であった、文字では理解しえなかったすべてを、密教の衰退に向かう唐から日本へ持ち帰ることとなった。
20才で東大寺戒壇院で受戒した最澄は同じ遣唐使として渡りながらも、密教を民衆をたぶらかす呪術とし、法華経を信じ天台の教えを知ることに終始した。空海とは別に天台山をめざし、密教の一部も先んじて持ち帰ったが、密教に対する理解は空海に及ぶものではなかった。

[本▼▼▼▼▽]
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2006.08.15 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












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