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したい気分

エルフリーデ イェリネク

オーストリアのスキー場がある町の製紙工場の工場長と妻のゲルティの行為だけを抽象絵画のように綴る。
青年ミヒャエルとの情事が少しストーリーを感じさせるぐらい。
会話もなければ、丁寧な状況説明もない。
登場人物の特定すらほとんどなされない。

たとえば、自然な水の美しさを表現するのはこんな調子。

山間の小川、その上流である当地では、まだどんな科学物質もその中で泳ぎを習っていたりしない。ただ時折、人間のみすぼらしい排泄物が泳ぎの練習中だったりするだけだ。

これに慣れるのに時間がかかる。

この本の内容をうまく言い表しているのは次のようなところかもしれない。

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性は、自然とまったく同意であり、それに付随するもの、つまり生産物と製作プロダクションからなる信奉者の小群がいなくては、楽しむことができない。性は、繊維産業と化粧品産業の最高品質の品々で気持ちよくまわりを飾ってもらう。そうですとも、それに、性は多分人間の本性であって、私が思いますのに、人間の本性とは、性を後ろから追いかけて走ることにありまして、そのあげくに人間は、全体として見れば、また人間の限界内で見れば、性とまったく同じように重要になってきているのです。ひとつ比較してみれば、あなたは確信なさるでしょう、つまり、人間とは人間が食べるところのものであると。その結果ついに、仕事が人間を押しつぶして汚い堆積物にしてしまい、溶けた雪だるまにしてしまうのです。そのあげくに人間の〔よくない〕出目によってみみずばれになるほど手荒い扱いをうけて〔原語 gestriemt は、 Strieme「みみずばれ」 と striegeln 「手荒く扱う」 の作者による合成語〕、もはやもぐりこめる最後の穴すら残っていないわけなのです。

ストーリーそのものよりもメタファーや言葉遊びの世界に引きずり込まれる。
ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」のような本ということなのかもしれません。
ノーベル文学賞を取りながらも、一般にポルノ小説としての話題が先行しがちな作品ですけれど、そんなことはすぐにどうでもよくなります。
男が圧倒的な立場に立つ性関係の挑発的表現に違和感を感じながらも、一方で男女という性を持った生き物に妙なリアリティも感じるのが不思議。
翻訳の限界を感じつつも、ひきつけて離さない魅力は原作の芸術性によるものなのでしょう。
こんな小説があるということに驚き、感動しました。

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2005.02.06 | 本  | トラックバック(0) | コメント(0) |












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